目次

  1. 身近な類推IV:「品川区教育長の戯言(古いけど)」(2004/06/04)
  2. 身近な類推III:「自己責任」again (2004/05/06)
  3. 「不自由論」を読む(2004/05/06)
  4. 身近な類推III:「自己責任」(2004/05/02)
  5. 「自然に帰れ」の傲慢さ(2004/04/24)
  6. ダイナミカル宣言VII: 発達心理学会ラウンドテーブル(2004/04/09)
  7. 「使いやすさの認知科学」刊行(03/07/11)
  8. ダイナミカル宣言VI: まもなく出ます「知の起源」(2003/07/01)
  9. 2002年のいろいろ
  10. 2001年のいろいろ
  11. 2000年のいろいろ
  12. 1999年以前のいろいろ(2000/03/13)

身近な類推IV:「若月品川区教育長の類推の名を借りた妄言(古いけど)」(2004/06/04)

石原慎太郎が東京都知事になって以来、東京都の教育はアナクロ、反動色をど んどん強めています。卒業式の国歌斉唱時にで起立しないという理由で東京都 教職員を大量に処分したり、来賓の退職教員がビラを配ったことで刑事告訴し たり、国旗・国歌法に名を借りた弾圧が平然と行われています。この法律は本当に 国旗と国歌をきめただけの法律であり、こんな処分が正当化されるようなもの では全くありません。そのうち本当に軍事教練が始まるのではないかと大変心 配しています。

こうしたことでかなり腹を立てており、これについて一言をいろいろ考えてい たのですが、かなり以前に書いたものが見つかりましたので、とりあえず掲載 しておきます(そのうち卒業式での国歌に関することをまとめて書きます)。

政治の分野ではめちゃくちゃな類推が幅をきかせています。このうちでもきわ めつけの類推?????????を取り上げます。これは、青山学院大学 卒業で、品川区の教育長をやっている若月さんが2001年にやったものです。ま ず背景を説明すると、品川区議会である自民党議員が卒業式の来賓の中に国歌 斉唱で起立しない人がいるが、こういう人を来賓として呼んでいいのか、とい う質問があったそうです。これに対して、教育委員会の課長が「起立しない人 は呼ばない」と答えました。これに対して野党の議員から反対があり、それに 応えて若月氏の類推??が飛び出しました。その類推??とは、

結婚式でも従わない人は招待しない。それと同じだ。

というものです(これは朝日新聞の2001年3月24日朝刊に基づいています)。

はぁー????、ですよね。

ここでは結婚式の中でのことをもとにして(ベースといいます)、卒業式の(ター ゲットといいます)についての推論を行っています。類推ではベースの中で成 り立っていることが、ターゲットにおいても成り立つという形の推論が行われ ます。大事なことというよりも、もっとも基本的な前提は「ベースにおいてxx が成り立っている」ということです。これは類推の理論など持ち出さなくても、 自明である類推のきわめて初歩的な条件です。もしこれがないとすると、「魚 屋でも布団を売っているのだから、コンビニでも布団を売るべきである」、 「アメリカにも宇宙人がいるので、日本にも宇宙人がいる」、「金魚は哺乳類 なのだから、ごきぶりも哺乳類だ」などというおよそ馬鹿げた結論がなんでも 導き出されます。こういう類推(?)を聞けば、誰でも「そもそも魚屋で布団売っ てるかよ」という反論をし、それを言った人の知性を疑います。

「結婚式でも従わない人は招待しない」というのは、何に従わないのかが書い てありませんが、その内容に関わらず、そもそもそうなんでしょうか?結婚式 に来るか来ないかは聞かれますが、xxに従わなければ招待しませんなどという 招待状は見たことがありません。また従わないので退席を求められるというこ ともありません。

さてこうしてみると、若月氏の類推(?)はそもそもこのもっとも基本的な条 件を満たしていないことになります。そもそもベースで成り立っていないこと をもとにしてターゲットで何かいう、もうこれは類推では全くないし、こうい うものにだまされてはいけません(いるわけはないと思うけど)。こういう戯言 が議会での答弁になるというのも不思議です。


身近な類推III:「自己責任」again (2004/05/06)

イラク邦人人質事件で、人質の自己責任を問う人間への抗議および署名を行う サイトを見つけました。おかしなことを言う連中に抗議したいのなら、署名サイトはこちらです。

「不自由論」を読む (2004/05/06)

ちくま新書からでている
仲 正昌樹著「不自由論:何でも自己決定の限界」を読みました.ドイツの現代 哲学,脱構築,ルソーのことなど,勉強になったことがたくさんありました.ま た,「自然に 帰れの傲慢さ」で書いたこととつながる点がたくさんあり,強い共感を覚え ました.佐藤卓巳さんの論とも共通して,共感するのは,何かの究極の一点,超 越論的実体が虚構であること,それに依存する説明や理論が専門家のみならず素 人においても,いや素人においてこそ顕著であることの2点です.

さてこの本は哲学者によるものであるにもかかわらず,めずらしく教育問題が取 り上げられています.それは文部科学省がここ10年くらい進めてきて,大批判を 受け,撤回しつつある「ゆとり教育」についてです.この部分で彼が批判してい るのは「ゆとりによってこどもの主体性を取り戻すことが可能である」という論 です.

この問題については私も 科学教育を考えるで論じましたので,仲正さんの批判を検討してみたいと思 います.彼が批判するのは,

「ゆとり」教育論のメルヘン性
ゆとりがあれば主体性が作られるのか
学校共同体至上主義
学校という枠の中での主体性しか考えていないじゃ ないか
論じられている主体性の曖昧さ,虚構性
結局自然状態におかれた人間 にそもそも存在すると誤解されている主体性じゃないか
という点です.これらを軸に左派(?)宮台真司 や右派西尾幹二,あ るいは教育学会の大御所の堀尾輝久らの難点を的確に指摘しています.

ただこれは余りに抽象的な議論かと思います.現実の改革というのは「よりまし」 を狙うのであって,哲学的な難問に正解を与えることではないでしょう.つまり プラグマティックにものを考える必要があるのです.

こうした観点から考えると,「ゆとり」は必要なんじゃないかと私は思います. 以前,塾や予備校で講師をしていたのでよくわかりますが,理科,社会あたりは trivialなことの学習に費やさねばならない時間が極めて多い(小学校で言えば, 星座の名前,何とかという花のがくの数,みかんの収穫量).こういうと,それ ぞれの分野の専門家から「重要だ」という反論が返ってくると思いますが,私が いいたいのはこれらが孤立した知識として取り扱われているという点です.「な ぜ」,「どうして」,「どのように」という観点が希薄で,「何々は何々だ」と いう宣言的な形で知識が伝授されます.これは教師の能力の問題とも言えますが, 理解を伴う学習を行うための時間不足も大きな原因です.このための時間の確保 をしようというのが,ゆとり論の骨子だと思います.これは大事なんじゃないか なぁ.

私は上のリンク先に示した論文で,「知識の主体的構成」という言葉を用いてい ます.「主体」などと安易に言うと,結局与えられた枠の中の主体性に過ぎない じゃないか,そもそも人間は特定の社会,文化の中でそこでの様々な規制の下で 成長してきているのだから,主体性などというのは虚構だと批判されるかも知れ ません.

しかしこの種の批判は次の2点において間違っています.ある種の経験がある 集団に与えられたとしても,その受け入れ方は人によって異なります.日本語 を使うから日本語にとらわれる,日本文化の中で育つから日本文化にとらわれ る,消費社会にいるから消費社会にとらわれる,これらは事実です.しかし, とらわれ方,とらわれる程度,とらわれる範囲は人によっていろいろです.こ れは日常的にも当然ですよね.経験の受容は,受容者の過去の経験との相互作 用によって生じますから,結果として生み出される経験は本来,各人独自です.

もう一点の間違いは,とらわれ(制約)の組合わせ方には自由があるということ です.何との関連でものを考えるのか,何と何を学習事項に関連するものとして 取り上げるのかなどは個人の自由です.理解のためのとらわれ(制約あるいは資 源)の組合わせ方によって,人は自分なりの,つまり主体的な知識を構成するこ とができます.というか,そのやり方まで完全にコントロールすることは心理学 実験室内であってすら極めて困難です.

ここでとらわれといってきたことは、認知科学ではふつう「制約(constraint)」 と呼ばれていてます。人間は各種の制約の束と考えることができますが、それ らの相互作用により、様々なパターンが生み出されるというのは、我々の業界 では常識です(多 重制約理論 制約の動的緩和理論などなど)。制約と自由は何も相反するものじゃない ということです。

人間が言葉の素朴な意味で,つまりあらゆるとらわれから解き放たれたという意 味で「主体的」であることはないでしょう.それどころか,膨大な数のとらわれ に支配されているのでしょう.しかしとらわれが膨大であることは,そこに様々 な変異が存在することをも意味します.そしてその変異は人によるのはもちろん のこと,おかれた状況にもよります.こうした意味では個々の人間はユニークで あり,この意味のユニークさを主体性と呼んでもいいのではないでしょうか.

従来の教育のまずいところは,経験の受容における,過去経験との相互作用に十 分な配慮がないという点です.「あのときのあれか」,「あのときと違うじゃ ん」,「あれと似ているな」など,既に知っていることとの相互作用することで 経験は主体的な知識となるわけですが,そうしたことを行うための時間を十分に とらない,そういうことを促すための指導がないということです.その結果,伝 えられることは孤立した知識となってしまい,忘れられてしまう.覚えていても 宣言的な知識になっているから,新たな場面に使えない.すると,教育は,言わ れなくても速く相互作用を行える人とそうでない人を選別する目的(大事な目的 ですが)に貢献することしか出来なくなってしまう.

こういう状態よりましな状態にしなければならないというのが,ゆとり論の骨子 だと思います.「じゃあましになったのか」と言えば,学力が低下してるじゃな いか,という反論が来るわけです.これについてもいろいろと考えていることが ありますが,余りに長くなるのでここらへんで.


身近な類推III:「自己責任」のアナロジー(2004/05/02)

イラクにおける邦人拉致人質事件に関して,被害者の「自己責任」を主張し,救 出に要した費用を請求し,さらには反日分子などというとんでもない言葉を投げ つける政治家(この発言をした柏村という参議院議員のページは
ここ。またこれ関連の記事はこちら)が与党を中心に存在するのはよくご存じだと思います.

自己責任という言葉自体はアナロジーでもなんでもなく,単に「自分の責任で」 ということを指すだけです.しかし,この事件においてはこの言葉がアナロジー を伴いつつ用いられています.「山にいくのは自分の勝手」であり,自ら の意思の結果であるから,そこで事故にあっても自己責任であり,「救出費用は 自腹」となる.同様に,「イラクに行くのも自分の勝手」であり,自らの意志の 結果であるから,そこで拉致されても自己の責任であり,「救出費用は自腹」と なる.ということでしょうか.

これは一見筋が通っているかのように思えますが(思えないか),アナロジーの とんでもない誤用でしょう.人を拉致して人質とするのは犯罪です.登山におけ る遭難は事故です.拉致の場合それを引き起こしたのは犯人であるところの,特 定の個人,集団です.一方,遭難を引き起こしたのは天候,あるいは登山者の不 注意等です.どういう犯罪に関してもその犯罪の第一義的な責任は犯罪を引き起 こした側にあるのは論を待たないでしょう.

犯罪という文脈で別の例を考えれば全く異なった結論が出ますよね.「歌舞伎町 で飲んでいたら金を巻き上げられた」,「やくざにけんかを売ったので殺された」 「夜道を女性が一人出歩いていたから暴行された」,「バッグを車道側の腕で持っ ていたので奪われた」等々.これらにおいていずれにおいても犯罪被害者の自己 責任などということにはならない.ある程度責任を問われるにしても,犯罪者が第一義 的な責任を問われることは自明です.また,その捜査にかかった費用を被害者が 払うなどというのは聞いたことがありません.

私はアナロジーの「準抽象化理論」という理論を作り出しましたが,この理論の 教えは(すごく簡単に言ってしまうと)同じタイプの事柄間でないとアナロジー の妥当性は保証されないというものです.詳しくは「類似と思考」(1996, 共立 出版)をごらん下さい.登山と拉致などというとても意味的に離れた事柄の間の アナロジーは,それらを同じタイプと見なすだけの意味的基盤が私たちにはあり ませんから,いくら辻褄が合うように見えても,かなり疑ってかかった方がよい ということです.より意味的に近い事柄の間のアナロジーが存在する場合で,か つそのアナロジーの結論が,遠いアナロジーの結論と異なる場合には,おそらく 採用しない方がいいと思われます.登山でアナロジーするよりも,殺人や強盗な どの犯罪アナロジーを使うべきだということです.そして犯罪アナロジーと登山 アナロジーの結論が異なる場合には当然犯罪アナロジーを使うべきであるという ことです.

それにしても,我々の税金をさも自分の金であるかのごとくに考えている,異常 な思考回路の政治家が与党に多いのはどういうわけでしょうか.この理由は明白 でしょう.与党は十分な論議もせずに自衛隊の海外派兵を行いました.公明党は 党首が現地に赴き,十分な護衛の下で,絶対に安全な地域を「視察」して,「イ ラクは安全」などと馬鹿げた声明を発表したわけですね(そんなこと簡単に言っ ては「いかんざき」).でも全然安全なんかじゃなかったわけです.安全じゃな いから,イラクへの渡航を見合わせよ,という勧告もしているわけですし,戦争 がまだ続いているから,ファルージャでの「停戦合意」もあるわけですね.こう いうでたらめがばれちゃったわけです.だから恥ずかしさと,悔しさで,「自己 責任」という言葉が出てくるわけです.

犯罪から国民を保護する,犯罪の被害にあった人を救出する,保護するという のは国の基本的な責務でしょう.そのために私たちは税金を払ってるんでしょ う.もしその費用を請求するならば,犯罪者に対してであって,被害者に対し てではないでしょう.こうした見解については小説家の高橋源一郎さんが秀逸 なコメントを寄せています(朝日新聞4/19夕刊です.これをそのまま載せてい るサイトもあるのですが著作権上問題があるのでここではリンクしません.た だ適当な検索エンジンで「高橋源一郎,朝日 イラク」などとやれば読めます).


「自然に帰れ」の傲慢さ(2004/04/24)

世界思想社という京都にある出版社の宣伝誌で「世界思想」というのがありま す.これは年に1回送られてきます.時々面白いエッセーが載っているので,送 られてくるとだいたい読みます.

今回送られてきた中に佐藤卓己さんの「メディア論者は『美しき自然』を歌わな い」というエッセーがありました.著者の佐藤卓己さんは専門がメディ ア論で,著書の現代メ ディア論(岩波)はこの分野のとてもいい教科書です.私もメディア関係の講義を行っ た時にはよく参考にさせてもらいました.

さてこのエッセーの中身は自然礼讚,自然との共生,街並保存などの欺瞞性,い かがわしさを批判するというものでした.まさに我が意を得たり,という感じで した.気に入ったポイントを抜き書きすると,

というあたりが挙げられます.

私も「自然に帰れ」などという主張には嫌悪感を感じ続けてきました.帰るべき 「自然」ってなんですか?田舎ですか?テレビなし,電話なし,はては電気無し ですか?家はあってもいいんですか,本は読んでもいいんですか,火は使っても いいのですか,言葉は話してもいいのですか,どこまで戻ると自然になるのでしょ うか.

こういう人たちの自然って要するに自分の育ったときのことですよね.そこを自 然の原点と勝手に定義して,そこに戻れとというわけです.さらには「もどって おれのような人間になれ」ということですよね.自然を大切にという一見リベラ ルな主張の背後には,こういう傲慢な態度が潜んでいます.図式化すると以下の ような感じです.

自分より前 自分=原点 自分より後
野蛮 よき時代 不自然,壊れている

教育の文脈だと話はますます変になって,「自然と触れ合うことで豊かな感性 が育つ」などという話がよく聞こえてきます.これはアナクロ人間だけでなく, 立派な科学者たちからも聞こえてきます.少年少女たちがおかす様々な非行, 犯罪が自然との触れ合いの欠如の結果であるというような論調もあります.

では自然とはたっぷり触れ合ってきたはずの前世紀初頭生まれの人たちは何をやっ てきたんでしょうか.そういう人が自然を破壊してきたのではないですか.環境 を汚染し,他国に侵略し,とんでもない数の人間を殺してきたのは,今より遥か に豊かな(?)自然の中で育ってきた人なのではないのですか?

さて,佐藤さんはそのエッセーで自然は手のつけられていない,人間に不寛容な ものとしています.でも私は「自然とは今自分がいる環境のことだ」という考え です.自分がなれ親しんで,いろいろなものが「自然に」感じられる,それが自 然でしょう.自然に感じられない,それゆえ感動したり,畏怖したりするような ものは不自然でしょう.

上の意味での自然は私たちの身体,認識と一体,あるいは混じりあっています. とすると,今いる自然から出るということは半ば不可能であるということになり ます.また我々の自然を構成する様々な要素(テレビ,携帯,PC等々)はある種 のネットワークを形成していると考えられます.よって任意にどれかを抜き取る ことは難しく,仮にそれを行っても他のものがその穴を埋めたり,あるいは予測 不可能な歪みを生活にもたらすことになります.また文化や制度はこうした自然 を前提として組み立てられているので,ここから離れるととてつもない文化的な 不利益をこうむる危険性が高いと思います.

さてこのように考えると,「自然に帰れ」と叫ぶ人たちがなぜそうするのかが分 かってきます.それは,環境が変化し,自分達が慣れ親しんだやり方が通用しな くなり,自然に振る舞えるような環境ではなくなってきたからである,と.これ は重大な問題だから,大声で叫ばねばならない.つまり「変化への抵抗」の一種 ということですね.うんうん,よくわかります.

でも,そういうときは「ちょっと俺たち生きにくいんだよね」とか,「私たちの 『普通』でやるうまくいかなんだけど」とか,そういう感じでものを言ってもら いたいものです.

自然に帰れるのならばどうぞご自分の設定した勝手な自然に帰ってください.で もあなたの自然に私を連れ込まないでください.私には私の自然があるのですか ら.


ダイナミカル宣言VII: 発達心理学会ラウンドテーブル(2004/04/09)

3月終りに発達心理学会の大会がありました。そこで北海学園大学の小島さん が「制約と創発」の関係についてのラウンドテーブルを企画しました。小島さ んから声をかけられて発表してきました。

特集「知の起源」で私は「認知の創発的性質」という 論文を書き、そこで認知の4つの性質を挙げました。

  1. 生成性:その場で(online)で認知が生成される。
  2. 冗長性、重奏性:1つの認知の背後には複数の認知が協調的、競合的に 動いている。
  3. 局所相互作用:中央制御は、制御の1つのリソースに過ぎない。
  4. 開放性:認知システムは内部と外部に分散したシステムである。
こうした内容に発達心理学の文献を絡ませ、以下の提案を行ってきました。 そのときの資料をPDFで ここ(パワーポイントファイルです)に置いておきます。 質疑応答もおもしろかったのですが、ややテクニカルなので飛ばして、本の紹 介をします。この発表を行うのにいくつかの本を読みましたが、その中で非常 におもしろかったのは、 です。

発達心理学はこの期ととんとご無沙汰でしたが、確実に新しい展開を向かえて いることがわかりました。Microdevelopmentは、生成性、冗長性、重奏性をま さに正面から捉え、発達心理学、教授心理学に新しい展開をもたらそうとする ものです。あまりにおもしろいので、今年度の大学院のゼミで使うことにきめ ました。Hearing Gestureは、冗長性、重奏性と開放性に深く関係した議論を 行った著書です。これもまたおもしろかったので、本学英米文学科の野辺 先生といっしょに輪読会を行いました。

世の中変わってきました、ダイナミカルです。


「使いやすさの認知科学」 刊行(2003/07/11)

私が編集委員をしている認知学の探求シリーズの新刊が出ました。「使いやす さの認知科学」です。
目次はこ こです。この本は確か1998年に「認知科学」誌で法政の原田さんが担当し たインタフェース特集をもとにしたものです。

ここで言うべきことは、何よりもまず私と植田さんが書いた「コミュニケーショ ン的インタフェース論」が載っていることです。このページで今までインタフェー スについては書いたことがありませんでしたが、私は実は7,8年前からインタ フェースの研究を行ってきています。特に課題分割という考え方は、自分で言 うのも何ですが、けっこう有名です。この総決算 とも言うべきものが(むろん途上ではありますが)、上の論文です。骨子は、

というものです。

ユーザからは「ひどいソフトだ」、「インタフェースが悪い」、開発者からは 「ひどいユーザだ」、「これだけしてやればわかるだろう」などという文句が よく聞こえてきます。しかし、こうした責任のなすりつけあいは何も生み出し ません。こうした不毛な関係を清算しましょう。人間も含めた一定以上 複雑なシステムは「触ったとたんにわかる」などということはありません。相 手を知るには時間がかかるように、コンピュータ(ソフト)を知るにも時間がか かります。ユーザはこれを認識すべきです。また、製作者はこうした時間に見 合うだけの一貫した人格を持った製品を作るべきです。こうした主張を実証的 実験と組み合わせながら主張しています。ぜひお読み下さい。

他にもかなりいい論文が載っています。いくつかあげれば、Hollanらの分散認 知についての論文は、彼らの今までの研究がコンパクトにまとめられていて便 利であるとともに、かなりグッとくる主張が随所にあります。また、ATRの 岡田さん も非常にいい論文を書いています。彼の研究はダイナミカル宣言をやる 前には何だかよくわからなかったのですが、宣言以降はいつでも気にしていま した。これからのインタフェースを考える際の必須の事柄がこれまた満載です。

ということで「買いましょう」。


ダイナミカル宣言VI: まもな く出ます「知の起源」(2003/07/01)

10ヶ月ぶりです。うーーん、忙しかった。忙しすぎて何が忙しかったかも覚え ていません。

さて、私がここでダイナミカル宣言をやっている最大の理由は、認知科 学は「知の創発、生成」を扱わなければならない、と考えているからです。そ してこの知の創発について、10年ほど前から本当に新しいアイディアが様々な 領域で生み出されてきています。私は数年前から遅ればせながら、これらの研 究に触れることにより、ダイナミカル宣言をするに至ったのです。

私はこうした動向をなんとか多くの人に知ってもらいたいと考えてきましたが、 このたび人工知能学会の編集委員会のおかげで、人工知能学会誌の7月号(Vol. 18, No. 4)に「知の起源」という特集を組ませていただきました。まもなく出 ます。これははっきり言って(ものすごく)お勧めです。以下、著者とそのタ イトルを挙げます。

すごいでしょ(はじめのを除けば…)。茂木さんはクオリア・マニフェストの脳 科学者、佐々木さんはアフォーダンス、身体論、岡ノ谷さんは進化論、脳科学 を自在に操る動物行動学者(特に鳥)、太田さんはミーム論を駆使する法社会学 者、波多野先生は認知発達研究を数十年にわたって主導してきた心理学者です (紹介は不要とも思いますが)。こうした、私自身が直接的、あるいは著書を通 して間接的に大きく影響をうけた方々に執筆を依頼したところ、みなさん快諾 してくださり、今回の特集とあいなったわけです。いずれもすばらしいものば かりで、特集のエディタをやったことを誇りに思える論文が集まりました。

ぜひ読んでみてください。最低でもどれか一つはグッとくるはずです。そして あなたも「ダイナミカル宣言」をしましょう(近いうちに自分の書いたものに ついて少し書きます)。