世の中、ロボットが必要なところはたくさんあると思うんですよ。たとえば、 原発。鶴賀の原発の事故で通常の何千倍(万?)の放射能に汚染されたところ に漏れ出た冷却水を雑巾(!)で拭き取っていたという衝撃的な場面をみなさ んも覚えているでしょう。こういうところにロボットは必要じゃないんでしょ うか?臨海事故があったJCOで硝酸ウラニルという有毒物質を バケツを用いて移し分けていたというのもそうです。こ の事故がなぜ起きたかという研究によると、この移し分け10x10回も行うそう です(田辺・山口、1999年認知科学会発表論文)。この研究発表を行った人は、 その作業の面倒くささを図示、説明するために多数の容器が書かれたOHPを見 せながら「私なんかこのOHPの長方形(容器)を書くだけ疲れた」と言っ てました。こういうところにも、ロボットがいたらいいんじゃないですかね。
それから地雷。これによって悲惨きわまりない状態になっている人たちがたく さんいる。アフガンでも米軍のクラスター爆弾の不発弾が地雷化すると言われ ています。世界中に信じられない数の地雷がある一方で、その撤去作業たるや、 きわめて時間がかかり、かつ危険きわまりない。こうしたところにも、ロボッ トが必要なんじゃないでしょうか?
こうしたものがないというのは、つまりロボット研究が掃除のレベルにすら達 していない、ということを示していますよね(まあ、常識なんですが)。しかし 上に述べたようなまともなロボット研究を行っている人もいます。実際、ある 日のテレビで東工大の方が地雷撤去用のロボットを開発しようとしていると報 道されていました。こうしたちゃんとした、本当に「癒してくれる」ロボット を作りを行っている人にエールを送るとともに、意味不明なものを適当なネー ミングで売ろうとしている人への批判をしておきたい。
ところで、二足歩行もそうだよね。
本田のロボットを見て、「自然」と感じるのは、あまりにひどいもの見すぎた
せいであって、普通の人が見ればあれは「年がいもなく、うさぎとびグランド
一週やったおやじが翌日よたよた歩いている」としか見えないんだけど。
多くの人はこれでピント来ると思いますが、一応説明しておくと、むかしソー
プランド(しかし、この名前は慣れたからもうおかしくないけど、傑作ですよ
ね)は、「トルコ風呂」、あるいは単に「トルコ」と呼ばれていました。しか
し、在日トルコ人、トルコ(政府?)などから「トルコにはそんな下品な風呂
はない」と非難され、特殊浴場組合(たぶん)が新しい名前を考えて、それが
「ソープランド」となったというわけです。むろん、中身は大学同様(?)変
わっておりません(と思います)。
というわけで、
余談ですが、ソープランドという地名はないのかな。ソープ族が住んでいると
ころはソープランドという地名だったりして(フィンランドっていうのは、そ
ういう経緯でついた名前ですよね)。そういえば、コープランドという作曲家
がいたなぁ。どうでもいいか。
(これが許されないように、データもなしに臨床心理士だけをスクールカウンセラーとする、という文部科学省のやり方は許されない)。
ここでベースは薬、および厚生労働省によるその認可であり、ターゲットは臨
床心理士および文部科学省によるスクールカウンセラーとしての認定となりま
す。つまり、ここでは薬という馴染みのある文脈を用いて、あまり良く分からない
スクールカウンセラー(臨床心理士)に関する事態(の不適切さ)を指摘して
いるわけです。
これは皆さんすぐに納得できる分かりやすい類推ですが、従来の類推のパラダ
イムとは異なる、興味深い点を含んでいます。従来のパラダイムでは、ベース
は長期記憶中に存在する過去の経験(に関する知識)とされています。そして
これを用いて未知のターゲットを理解、説明、解決するというのが、ふつうの考
え方です。
しかし、波多野先生が挙げた薬の例は彼の長期記憶の中に存在したも
のなのでしょうか?どうも違いますよね。本人ではないので分かりませんが、
たぶんスクールカウンセラーに関する事態の不適切さを指摘するために、波多
野先生が自分で作り出したのではないでしょうか。
とすると、これはターゲットに触発されて生み出された、仮想的なベース
(hypothetical base analog)を用いた類推ということになります。
考えてみると、波多野先生の類推のような仮想的ベースに基づく類推は例外的
ではないですね。私たちが子どもを叱る時に、「もし自分がそういうふうに
されたらどう思う?」などとよく言います。これも考えてみれば、他人という
ターゲットの感情を理解する時に、「仮に自分がそうだったら」という仮想的
なベースを用いるわけですよね。
こうした類推は、認知科学のメインストリームの研究では全く取り上げられて
きませんでした。しかし、私の友人のBipin Indurkhya(ビピン・インドゥルキヤと
読みます。彼は約10年前にMetaphor and Cognitionというすばらしい本の中で
これを指摘しています)さんが主張する相互作用アプローチ、そして彼が依拠するMax
Blackの比喩説はこの波多野先生の類推をうまく説明できる枠組を提供してい
ます。彼らは、類推や比喩は決して固定した記憶表象に基づくのではなく、ベー
スとターゲットの相互作用から創発されるということを強く主張します。
うーーん、だんだんダイナミカル宣言になってきました。何を言ってもダイナ
ミズムに行き着く。長くなってきたので、
身近な類推・比喩I(2001/11/09)
ダイナミカル宣言をしていますが、私はもともと、そして今でも類推(アナロ
ジー)の研究者であります。いままでいつも思っていたのですが、新聞や一般
の人が読む本、雑誌、新聞などにおけるおもしろいアナロジー、変なアナロジー
を紹介する、新しいシリーズを作ろうと思います。第一回目は、岩波書店から
出ている「科学」という月刊誌から2つほど紹介します。
ダイナミカル宣言??:ダンスを考える(2001/10/12)
これはいわゆるダイナミカル宣言とは違いますが、なんか関係あるんじゃない
かと思っているので、こういうタイトルでいきます。
少し前の話ですが、7月に「ことば工学研究会」という会に出席し、発表をし てきました(私の発表はいつもの「機械とコミュニケーション」という機械音 痴に関わることで、特に付け加えるようなことはありません)。この研究会は よく知らなかったのですが、いろいろお世話になっているNTTの松澤さんから の話だったので、非常に忙しかったのですが無理して出席しました。
この研究会の最終日の午後のセッションは私の発表の前に、朝日新聞の科学担 当の方の話があり、大変に興味深かったのですが、さらに衝撃的だったのはお 茶大の相原さんという方のダンスについてのお話と実演でした。相原さんのお 話を簡単にまとめると次のようになります(あまり正確ではないと思う)。
この間、私は自分がなぜこわいと感じたのか、なぜ不安になった のかを考えていました。一生懸命考えていると、徐々に自分の気持が理解でき てきました。それは「予測不能性」にあります。人間が自然な動きをするとき の、その体のバランスというか、協調運動がないのです。たとえば、右手を前 にだすという動作をするとき、ふつうは右肩が前に出るとともに、左肩が後方 に移動し、体が腰の辺りからひねられたようになります。しかし、相原さんの ダンスにはこうしたその他の部分との通常見られる自然な連係がないのです。 そうした動きがなかったり、逆に予想もしない部分が動いたりします。
つまり、体のある部分の動きから予測できるはずの次の行為が全く予測できな くなるわけです。これは、こわい、ですよね。こうした動きを連続して見せら れると、徐々に自分が当然の前提としていた体の動きもよくわからなくなって きます。日常性の中に埋没していた身体レベルの認識が崩れていくというので しょうか。ハイデッガーは日常性の中に埋没している状態を被投(投げ込まれ ているという意味でしょうね)といい、それを乗り越え、自らを企投する(企て た上で投げ込むというような意味か)ものとして「死」を取り上げました。そ こでは不安が重要な働きをすると述べています。つまり、死ぬことを考えたら、 私が当然のことして行っている様々なことがいっさい失われてしまいます。 だから不安になりますよね。私の感じた不安も被投の状態を認識 する、ことから生じたのかもしれません。
これとともに「でたらめ」の意味というのもわかってきました。でたらめに動 けば相原さんのダンスになるのでしょうか。むろん、そうではありません。人 がでたらめに体を動かせば、必ずや定型化されたパターンの連続になるはずで す。昔、山下洋補という、私の好きなフリージャズピアニストの本で読んだの ですが、素人はでたらめに演奏することはできない、というような主旨の記述 がありましたが、まさにそれだなぁと思いました。
もう一つ言っておかなければならないのは、美しいといことです。予測不可能 な動きと言えば、ロボット(実は本物の人間のように、ペットのように設計し ているそうですが)の動きを思い出します。しかし、これらの動きが予測不可能である にもかかわらず、まったく美しくもないのは、ぎこちないからです。相原さん のダンスはぎこちとなさとは対極にあるものです。優美なのです、しかしわか らないし、自然じゃないんです。
予測不可能な動きを組み合わせ、一つの体系を、美しく、つくりだしていく。
そして見ているものの日常性への埋没を抉り出し、新たな問いかけを促す、うーー
ん、芸術家っていうのは、すごい。まいった。そういえば八
谷さんもそうだったなぁ。からだは認知のダイナミクスの源泉となるもの
で、こうしたものを何とか取り込みたいが、先は見えないなぁ。
ダイナミカル宣言IV:とりあえずのまとめ(2001/09/08)
前回から、6カ月ほど時間があいてしまいました。あまりに忙しくて、仕事を
する以外にやったことといえば、各々の仕事の区切りがついた後で、しこたま
酒を飲むことだけだったような気がします(だからやったことをすぐ忘れる)。
思い出したら、また付け加えていきます。ちなみに、論文関係の仕事は今年は
もう終わりました。読んでみたいと思っていた本がたまっていますので、
後は楽しい3ヶ月を過ごします。
さて、ダイナミカル宣言ですが、いくつかの方向がはっきりとしてきました。 これは詳しくは「認知科学」(日本認知科学会の学会誌)の8巻3号に掲載され た私の論文「思考のダイナミックな性質の解明に向けて」 をごらんく ださい。書いたことは、前半は「類似と思考」以来書き続けてきている、
自分でもよくまとめたなと思いました。ただ、これは出発点というか、ダイナ ミズム宣言の一歩めに過ぎません。この中で、具体的な研究を展開させる必要 があるのは言うまでもありません。
なお、この他に、ダイナミカル宣言をやるきっかけになった論文である、
認知科学、特に教授心理学、発達ベースの心理学では、主にBruner型の教育観 が支配的であったといえよう。つまり、スキーマ、メンタルモデルを事前に与 え、教えられることをうまく整理しながら学習を進めるというものである。
しかし、こうしたものは学習のoutputであり、それをそのまま与えれば学習が うまく進むかといえば、必ずしもそうとはいえない。というも、そのスキーマ なり、モデルなり、ストラテジーなりが、必要とされる場自体を学習者が共有 できていないことも多いからである。
たとえば、娘の漢字の学習を見ると、はじめはとても労力がかかる、非効率的 な方法で学習を行なっており、またそれは間違いも多く生み出す。まさに「写 す」という方法で学習を行なっている。似たような漢字がでてきても、それら を対比して学習するのではなく、それそのものを書写していく。たとえば、 「休」と「体」はよく似た字であるにもかかわらず、それらを体系化して覚え ようとはしない(横棒が一本足りないとか)。かけ算九九でも同様で、ひっく り返せば同じになるということを言っても、それをexplicitに使うことは学習 初期には少ない。
他の例としてはOSコマンドが挙げられる。 OSのファイル操作を覚えると大変に便利なもので、これがいわゆる初 級と中級の壁となる。私もコンピュータの授業ではこれを何とか教えようとし てきた。しかしながら、無理矢理やらせればなんとかやるが、なにかぼーっと した表情で、「そうですか、そういうのもあるんですか」という感じである。
しかしながら、なぜかある一定程度の学習が進むと、自発的にさまざまなスト ラテジーを用いたり、いぜんは教えられても用いることのなかったストラテジー が観察される。漢字の例でいえば、似たような漢字を対比させ、その違いだけ を覚えるような方法を用いるのである。また、OSの例でいえば、勝手にOSのコ マンドを用いたりするようにもなり、私自身が知らなかった方法を身につける こともある。
こうしたことは内部ダイナミックスによると言えよう。つまり、一定程度の知 識が身につくことにより、それらが相互作用し会い、自己創発的にストラテジー やモデルといったものが生成されるのである。それらは自己の内部状態や課題 の要請などから創発されるものであり、自分なりの創意や、工夫を込めたもの となっている。
教え込んでも、自分で発見しても結果は同じかも知れない。しかし、それが外 部から無理矢理挿入される場合と比べれば、その真価がわかるのである。こう したことが意識的にされるかどうかはわからない。しかし、あえて意識的にい うとすれば、「そうかもしれないけど、そんなこといわれたって、今はそんな ことやっている時期じゃないの」という感じであろうか。潮時、臨界期という ものが、学習には存在している。
こうした観点から従来の認知科学の学習研究を見ると、考え方だけではなく、 研究方法にも欠陥が見えてくる。従来は、たかだか30分、長くても10時間程度 (このくらいやるのはきわめて稀だが)の学習で習得できるような知識や、技 能を扱ってきた。そうした場面では、覚えることも高々数十個程度であり、教 えられるストラテジー、例題が持つ意味などを十分に理解できる可能性は少な い。たとえば、OSの学習の際に、いままで文書ファイルを数個程度しか作った ことのない人に、コピーはこうします、削除はああやります、ショーとカット はこう作ります、などと教えてみても、そのありがたみは決してわからない。 数個ならば一目瞭然で、自分で「あれはいらないファイル」とでも覚えておけ ばいいからである。
つまり、従来のアプローチでは、知識や技能が蓄積され、自己創発的な組織化 が始まる前に、学習が終ってしまっているのである。こうした場面では、人は 愚かであるし、言われたことをよく吟味もしない、というかする必要がない。 教えられると、「じゃあそうやればいいんですね」という次第で、数週間後に テストすれば、あるいは例題と異なることを行なえば、全滅である。
これらが意味することは、認知科学はより長期に渡る学習をもっと積極的に行 なわねばならないということであろう。
人はなぜ学ぶか(2001/03/03)
ダイナミカル宣言はちょっと休憩。
今日、日本認知科学会の「教育環境のデザイン」分科会に出席しました。 私はそもそもこの分科会の発起人の一人でしたが、
今回は、テーマが「教えないで学ぶ」とかいうものだったのですが、発表者が 佐伯先生、 茂呂さん (筑波)、須 永さん(多摩美)ということもあり、おもしろい話が聞けるのではないかと 思い出かけました(もっとも青学でやったのでエレベータで4階降りただけで すが)。実際、盛況で60名しか入らない部屋に100名近くの参加者がありました。
そこで「人はなぜ学ぼうと思ったり、学ぶのをあきらめたりするのか」という ような話になって、ふと昨年(あるいは一昨年)の科学研究費の集会で聞いた すごくおもしろい話を思い出しましたので、会のことはさておきここにメモし ておきます。
その話は京大の教育社会学専攻の竹内洋教授による「教養主義はなぜ崩壊した か」というものでした(ここに彼の 簡単な紹介があります)。彼の調査によると、明治期帝大における教養主義は 文学部においてもっとも盛んで(図書館からの本の貸出し数が圧倒的に多いと か)、文学部というのは地方出身者が他の学部に比べてかなり多かったそうで す。つまり、というわけにはいかないのですが、まあ話を簡単にすると、「田 舎者ほど教養主義に走った」ということになります。
で、それはなぜかというと、ここからが彼の推論なのですが、都会の出身者は高 度に発達した町文化(江戸や京都ですよね)というもののなかで育っており、田 舎ものががんばってもとうてい及ばないような日本の教養を身につけていた。 そこで田舎者がエリートとしての地位を確立するには、このハンディキャップを 何とかしなければなりません。そこで出てくるのが、いわゆる 今いうところの「教養」、つまり西洋の古典に由来する知識を吸収することだっ たのではないかというものです。西洋の古典はその当時は誰も知らないので、 スタートラインはいっしょになり、どこの出身であろうと、あとは努力次 第でなんとでもなるでしょう。
つまり昔の人が教養を学んだのは、それが「差別化」につながるからだという のが竹内教授の言いたいことなんです。差別化というのは、自分を他者とは 異なるようにするという意味であり、オリジナリティとか個性とかいうものと 同じです。まあ、新聞などにも一時よく出ていた言葉なので、あまり解説する 必要もありませんが、人種差別や、部落差別などとは意味が全く異なります (そういえば、今日出席した分科会の参加者が誤解していたなぁ)。 そういうものを持つ人は、よいpartnerを得る確率も増えるし、高い報酬を 得る可能性も出てきます。
このことからすると、現在教養主義が崩壊するのは当たり前で、教養を持って いても尊敬されることはありません。高い報酬を得るのならば、教養ではなく、 マニュアル的に試験問題を解説した本を読んだ方が効率的です。また、よい partnerをみつけるためならば、「レストランガイド」などでデートスポット を探し、それについての知識の蓄積をすること、バイトに精を出してかっこ いい車を買うことの方がよほどうまくいきます。
竹内教授は、この問題に絡ませて、「なぜ大久保清はベレー帽をかぶっていた か(若い人はしらないでしょうが、彼は有名な連続婦女暴行殺人犯で、だいぶ まえに死刑になりました。詳しく知りたい人はここ)」なども論じて いて、ものすごくおもしろかったという記憶があります 。ただし、お断りしておくと、そもそも1年以上前に聞いた話な ので、ここで書いたことの中には私の脚色もあると思います。
この竹内教授の説を最初の「人はなぜ学ぶか、学ぶのをやめるか」という問題 に適用すると、
蛇足になりますが、 こういう言い方が嫌いな人のために(つまり朝日新聞系の教育言説が好きな方のために)、
ダイナミカル宣言II:反応パターンを誤差にするな(2001/02/20)
誤差について考えてみたい。普通心理学の実験では、ある要因をコントロール
して、その結果の変化を見ます。たとえば、発達心理の場合で言えば、年齢と
いう要因をコントロールして(つまりさまざまな年齢の子供を対象とする)、
調べたい能力を測定すると考えられれているいくつかの課題を与え、その差を
見ようとする。そうすると年齢xの子供は正答率がX%であるが、年齢yの子供は
正答率がY%であるなどという結果が出てくる。正答率XとYが大きく異なってい
て、かつ年齢xとyが十分に近ければ、その能力はxからyの間に発達するなどと
いう。もう少し大胆な人は、xはA段階でyはB段階だなどと結論づける。
正答率X、Y%という場合、もしそれが0と100でないとしたならば、x歳児 でも少しは当たっていることもあるし、y歳児でも少しは間違えているという ことになります。ここの少し当たった、少しはずれたという部分はどういうふうに 扱われるでしょう?答えは「誤差」です。分析(特に統計分析)の時点では なかったことにするというわけではないけれど、結論部分では無視されることが ふつうです。仮に、無視されない場合でも、「それはたまたま当たった」とか、 「用いた課題のうちのいくつかが適当ではなかった」という形で扱われてしまう。 むろん、まったく不適当な課題が含まれていて、それがx歳児の成績を引き上げ、 y歳児の成績を引き下げるということもないわけではない。だから、 このようなまとめかたは必ずしも間違いとは言い切れないともいえます。
しかし、通常我々の目に触れるような論文は厳しい査読を経て公刊されたもの で、まったく不適当な課題が用いられた可能性は少ない。とすると、 なぜx歳児は0でないか、なぜy歳児は100ではないか、という問題を論じる 必要性がでてきます。
ということで主張したいことは、