2002年のいろいろ 目次

  1. 驚くべき調査(2002/09/03)
  2. 認知科学辞典刊行(2002/07/30)
  3. 個性を考える(2002/06/14)
  4. 身近な類推II:教祖と父親(2002/02/07)
  5. 査読を考える(2002/01/21)
  6. 「類似から見た心」刊行!!!(2002/01/11)

驚くべき調査(2002/09/03)

「子どものやる気」に関して、国立教育政策研究所(旧国立教育研究所)が行 なった調査の結果が朝日新聞に掲載されていました。それによると子どもがや る気を出すのは であることが解明!!されたそうです。これは意外ですねー、まさか子どもが 褒められた時、授業がわかるとき、おもしろいときにやる気出すなんて, 誰も 知りませんでしたよねぇ。さらに「叱られる」、「勉強しなさいといわれる」 とやる気がなくなることもわかったそうです。意外だなぁ、不思議だなぁ、びっ くりしたなぁ。それからこの調査を行った研究員たちの勇気にも驚かされ たなぁ。(混乱した方は、ページソースをご覧下さい)

ついでなので書いておくと、これもまた国立の研究所ですが、大学入試センター というのがあります。ここのある研究者から7月くらいに入試の方法やポリシー についてのアンケートというのが大学宛に来ました。各学科毎に入試方法やポ リシーが異なるので、当然我学科にも「記入して下さい」という連絡が大学事務 からありました。結構細かくて、まともに(私が)やれば小一時間くらいかか るものでした。うんざりしながら、この立派な紙に印刷された質問用紙を眺め ていると、「このアンケートの回答は公開された文書、ホームページなどに記 載されていることに基づいて書くように」とあるではないですか!あのぉ、こ れって自分で入試資料集めればいいことなんじゃないの。調査用紙を印刷した り、発送したりする暇や金があるなら、自分でやりなよ。赤の他人の労力をた だで使って、自分たちはその間何してんだろうね。甘ったれちゃいけないよ。


認知科学辞典刊行(2002/07/30)

今回は、表記の通り単なるお知らせです。認知科学辞典がついに刊行されまし た。私は「思考」という分野の編集委員をしていたのですが、本当に長かった なぁ、という気持ちです。この編集に関わる、最初のメールは1997年の7月に なっています(おそらくその前から幹事たちが仕事をしてたんでしょうねぇ)。 まあ辞典というのはこのくらい時間がかかるものなのでしょうか。

この辞典の特徴はカバーする範囲の広さにあるといえるかも知れません。今ざっ と見たんですが、理論、世界内存在などから、リンク、履歴、隠し味まであり ます。短いけど、ちゃんと(つまり認知科学的に)解説されています。

ところでこの短さは執筆の悩みの種でした。200-400字程度で正確に、かつわ かりやすく説明するのは大変に難しく、私も数十項目ほど書きましたが、まる で大学院の入試の答案を書いているような気持ちでした。

値段ですが、非常に高い、35000円もします。まあ関連辞典、事典(脳科学事 典、ニューロ・ファジィ・AIハンドブック)などをみるとこのくらいの値段に なっているのでしょうがないのでしょうか。CD-ROMにもなるそうです。これは いくらなんでも35000円ということはないでしょうから、一般にはこちらを買 うことになるのでしょうか。

なんか否定的なことばかり書いているようにとられると困るので、強調してお きましょう。便利な辞典です。認知科学だけでなく、人工知能、インタフェー ス、(認知)心理学、認知神経科学の研究者にも役に立つものだと思います。 自分では買わないにしても、図書館、図書室にはいれてもらいましょう。


個性を考える(2002/06/014)

この間、とあるシンポジウムを聞きにいった時に気になる言葉がありました。 それは「個性」です。そのシンポジウムの発表者の一人はロボットに集団で芸 をさせるという発表をしていました。そこで全く同じように作ったロボットで もハードウェア(モータ、センサ等)のちょっとした違いによって、動きに差 が出てしまう、そしてそうした差が個性のように見えるというような話をして いました。確かにみんなよりも少し早めに動くロボットを見ると「せっかち」、 よく外れた動きをしてしまうのを見ると「とろい」などという性格を付与した くなります。

こうした人間の擬人化傾向はかなり強力であり、どうも人間は自律的に運動す るようなもの、自律的な反応をするようなものに対しては、主体性を付与して しまうようです。これをもっともはっきりと示したのはリーブス・ナースによ る「メディア・イクエーション(Media Equation)」という本でしょう。これに は、人間が無意識のうちにメディアに対して擬人化を行なうことが、数多くの 実験から明らかにされています。大変に面白い本なので、ぜひ読んでみること を勧めます。

「個性」の話に戻ります。そのシンポジウムにおける重要な示唆は「「個性」 と「社会性」、「文脈」の関係です。もし他のロボットよりも若干遅れるロボッ トがいたとしても、もしそれが単独で存在していたらそれが遅れること、つま り「のろま」であることは、問題になりません。というか、そもそもそうした 個性は見えません。ここから分かることは、「個性」は、他者あるいは社会の 存在を前提としているということです。もっというと、他者との比較、所属集 団の平均との比較において個性が存在しているということです。

これはある意味では常識でしょう。他にもそうしたことを述べている人はたく さんいると思います(代表選手としては、私のあこがれの岸田秀。またたぶん、 臨床心理学の多くの理論もこうしたことを前提としていると思います)。一方、 人は性格テストに夢中になったり、研究者は性格特性を捉えようと意味のない テストを作ったり、あるいは「自分探し」、「本当の自分」などという言葉が 無反省に用いられたりしています。こうした人たちは、何か個性あるいは自己 と呼べるようなものが、社会や状況と無関係に「私の中」に存在していること を前提としているように思われます。

どういう文脈で使われているのかよく分からないけど、「自分探し」って言葉 は気持ち悪いよね。こうした言葉が広まると、なんか確固とした「自分」とい うのが存在するような錯覚にとらわれる。ふだんそんなことは考えたこともな いから、無理矢理考えると結局それは自分の理想、空想にしかならなくなる。 理想は定義上、現実ではないので、現実に不満を抱き、「こんなの自分じゃな い」などと考えはじめる。実は本当の自分というのは、今ここにいる自分のこ とで、それ以外は空想に過ぎないのに、その空想を実現しようという気になる。 無論、空想は実現不可能だから、どうやっても到達しない。また万が一、到達 した場合はそれは定義上理想ではなくなるので、また別の空想を作り出す。こ ういう悪循環が心の病を生み出すんじゃないかな。

また話が脱線しました。さてもう一度「個性」に戻ります。そのシンポジウム を聞いていて、疑問に思ったのは「モータの回転がちょっと遅い」、「センサ がちょっと敏感」というのは個性かなっていうことです。近視は個性でしょう か、人より足が速いのは個性でしょうか?どうもそういう使い方はしないので はないかと思います(こうした場合は「個体差」などというのではないでしょ うか)。

そこで提案。個性というのは、

個体差の認識、あるいはその認識に基づく行動のパターンではないか。

人は集団生活の中で、他者との違い(個体差)に気づく。その違いゆえに、あ る状況において利益を得たり、不利益を被ったりするようになる。そうした事 態に接して人は特定の感情を持ったり、あるいはそれにうまく対処するために 特定の行動を行なうようになる、これが個性なんじゃないか、と思うわけです。 たとえば、足が遅いので運動会の時になると、ドキドキして、弱々しくなる。 もう少し屈折したものとしては、仕事が遅いので、みなと同じに始めると遅れ が出てしまうので、人の話もそっちのけで仕事を始めてしまう、「そそっかし い人」。さらに屈折したのとしては、議論をするとついていけないので、会議 に最後のまとめ(論争を避け、議論をうやむやにする)の発言などだけを行な う「思慮深い人」、「バランスのとれた人」。

こうした二次的な心の働きが個性を生み出すと思います。よって、単なる個体 差だけでは個性とはいえず、その認識、その積極的利用、修正、ごまかし などが入ってくると、ロボットも人間のように豊かな個性を持つのではないで しょうか。


身近な類推・比喩II「教祖と父親」(2002/02/07)

2002年1月30日の朝日新聞朝刊にオウムのトップに就任した上 祐史浩に対するインタビュー記事が載っていました。この中で記者が「今でも 麻原を崇拝しているそうだが」という質問をしました。これを受けて、上祐は 「彼は精神的な父親のような存在である。父親が大罪を犯したら家族も一緒に 謝罪するが、父親への気持ちは消えはしない。父親との絶縁は不可能だ」と述 べました。これは前に述べた四項類推の枠組で言えば、

家族:父親=信者(オウム信徒):教祖(麻原)
というものです。

結論は受け入れ難いのですが、これはなかなかうまい類推です。さすが

類推の恐いところは、こういうところですよね。類推研究では、構造、意味、 目的が、ベース(この場合は上の式の左辺)とターゲット(同、右辺)が一致 していること、あるいは十分に似ていることが重要とされています。上の類推 は基本的にこれらのすべてを満たしています。またこの類推の核は、教祖=父 親という部分にありますが、これの背後にはきわめて日常的な、我々の慣れ親 しんだ同一化(抽象化)が存在しています。キリスト教では聖職者のことをファー ザーと呼ぶ宗派が存在しますし、戦前の日本では天皇陛下は国民(臣民) の父親とされていました。

これへの反論はいかにして可能でしょうか。思いつくまま以下に可能性を挙げ てみます。

  1. 父親が大罪を犯したら、(布教活動などの)公的な活動をふつうの家族 は行なうか、 という反論が考えられます。しかしこれは多分駄目ですね。 「じゃあ、犯罪者の家族は一生日陰者として暮らせと言うのか」と言われると、 終りです。
  2. 「犯罪の程度が違うだろう」というのも思いつきます。ふつうの人間の犯 罪と麻原がやったことは、同一視できないと言うわけです。でも、これもだめ ですね。類推では、程度の差は本質的ではないからです。たとえば、有名な太 陽系と原子の構造の類推でも、その構成要素の大きさなどは全く無視されます。 ですから、この反論は類推自体を否定することはできません。
  3. 切れないことは認めるが、問題は「何の気持ちが消えないのか」という ことだと思います。家族が父親への気持ちや縁を切れないとしても、それは父 親の犯罪的部分へではないはずです。 これを明確にしないと、健全な類推とは言えない。実際、オウム の教えには反社会的で、地下鉄、松本サリン事件に直結するような部分があり ます。謝罪の内容と、信じる部分との間の整合性(構造的一貫性)がどの程度 あるかが問題となるでしょう。しかし、 実際には上祐は「悪いところは捨てる」と言っ ています。「じゃあ、それをはっきりさせよ」と迫ることもできますが、また 彼は「できる限りオープンにしている」とも言っています。うーーん、困りました ね。
  4. もう一つの反論の可能性としては「単一の類推」であり、他の可能性を 考慮しない、ということも考えられます。たとえば、宗教=国家、教祖=元首、 という類推を考えることもできましょう。たとえば、ナチスドイツ(=麻原時 代のオウム)とその後のドイツ政府(現在のオウム)をベースとすれば、出て くる結論は全く変わってくると思います。ア ナロジーの力という本を以前に訳しましたが、そこに書かれている大事な ことの一つは、単一の類推はえてして妥当な結論をもたらさない、ということ です。妥当な結論を導き出すためには、 複数の類推を行ない、その結論の妥当性を類推以外の方法でチェックす る必要があります。
3にしても4にしても類推だけではやっぱりケリはつかないと言うことですね。 事実のチェックや整合性のチェックを行なわない限り、妥当な推論は導き出せ ないと言うことです。

査読を考える(2002/01/21)

昨年、2本ほど査読のある雑誌に論文を投稿したところ、両方不採録になり ました。一つの方は国際学会(英語)であり、もう一つは通常の学会誌です。英 語の方ですが、査読内容を読むと3人の査読者のうちの一人がreadabilityにつ いてものすごく低い点をつけていて、これが原因であることがわかりました。 確かに英語はうまく書けないのは事実なのですが、他の査読者はちゃんと読め ると書いていますし、なんとも悔しいので論点を整理して、プログラム委員会 に再審査を要求しました。もうすると、1週間ほどして採択になりました。

もう一つの方は、私が第一著者ではないのですが、やはり納得できない査読結 果であったので、第一著者の人が編集委員会に手紙を書きました。その結果不 採録が取り消され、つい最近になって条件つき採録になりました。

ここにまず(名前は出さない方がいいと思うので出しませんが)その国際学会 のプログラム委員会、その学会誌の編集委員会の柔軟で、誠意ある姿勢に深く 感謝したいと思います。また、抗議の手紙の中身をお見せできないのが残念で すが、非常によく書けていて、関連の方からは褒められました。

ここで皆さんに伝えたいことは、不採録だからといって「めげるな!」、「あ きらめるな!」ということです(むろん、別雑誌に投稿というのがふつうかも しれませんが)。筋を通して、冷静に、論理的に査読内容を批 判すれば、うまくいくこともあるということです。国際学会などの発表論文で はあまり再査読をやってくれないことが知られていますが、筋を通せば再審査 もあるということです。 また日本の学術誌の場合、編集委員会は査読結果を基本的に尊重しますので、 査読がかなりまずくても(厳し過ぎるのがふつです)それで決定というケース が多いと思います。こういう場合でも筋を通せばうまくいくことはあると思い ます。

長年、査読をしたり(年によっては数十本などという時もありました)、された り、の中で得た、自分なりの査読の心得をここに書き留めておきます。これに 納得したら、自分が査読をやる時に思い出して下さい。

過度な水準を求めるな!
論文で報告されたこと自体にはオリジナリティがなくても、 その報告が今までの知見をより強くサポートするのであれば(別種の課題、状況、年 令でも同じような知見が得られる等々)、十分に報告の価値があると 思います。学問研究は、オリジナリティ溢れる、斬新な、(しかし10年に一本 しか出ない)論文によってのみ支えられているわけではありません。そうした 斬新な研究を支える、さほどオリジナリティはない他の論文が構成する証拠の 体系から成っているのです。こうした証拠の体系に寄与する部分があれば、採 録にすべきと考えます。
修正可能なのに不採録にするな!
実際にはちょっとしたミスや見逃 しであり、修正や追加が可能であるにもかかわらず、「はい、これ書いてない からだめ」のようなことはやめましょう。修正すればその学問コミュニティー にとって重要な知見をもたらす可能性があるのです。厳し過ぎる査読は、こう した可能性を排除してしまうという意味において、学問の発展にとって ネガティブな意味しか持ち 得ません。査読は運転免許試験ではないので「ウィンカー出し忘れ、はい落第 (reject)」という感じで、「検定間違い、はい不再録」とやってはまずいで しょう。査読者は学問全体の発展を考えましょう。
論争するな!
査読は論争の場ではありません。査読においては、 査読者が半ば一方的に相手を評価する権利を持っているわけですから、論争を 行なえるようなfairな場所でないことは確かです。 投稿論文の分野では当たり前となっている大前提を否定するような (あまり常識化されていない)別の(新しい?) 学派の論理を持ちだし、自分と異なる立場の人の研究をはなから認めないよう では困ります。適切な論理と方法を用いて、新規な知 見をもたらすものは、自分の立場とは無関係に査読すべきです。
査読を依頼された論文誌の格を考えよ!
あまり書くべきではないかも知れないけど、一応書きます。 学術誌には「格」というものがあります。ものすごい発見をして、それ をきちんとした形で書くことが可能であれば、「格」の高い雑誌に投稿します (分野により違うとは思いますが、おそらく国際的な雑誌)。 そういう論文になっていなければ、もう少し格下の雑誌に投稿します。さらに 「一応報告」程度のことであれば、もっと下の雑誌に投稿します。読者がほと んど日本人ですから、多くの日本の雑誌は格が最高というわけにはいきません。 しかしながら、「そんなことわかったら、ここに出さないよ」というような査 読が結構多いのです。むろん、どんな論文であっても、それは著者の研究者と しての人格を表現するものなのですから、ここで述べたことが、「 いい加減な論文を日本語雑誌に載せましょう」とい う意味でないのはもちろんです。
ちなみに私が査読するときは、上記のことに加えておもしろさと論理を重視し ます。「おもしろさ」については、佐伯先生の「認知科学の方法」(東大出版 会)の1章に大変参考になることが書かれています。

「類似から見た心」刊行!!(2002/01/11)

大西さんと私で編集した「認知科学の探求シリーズ:類似から見た心」(共立 出版)が昨年(2001)暮れに出版されました。この本は、「類似」という観点か ら人間の認知を捉え直すという、1990年以降かなり活発になってきたアプロー チの延長線上にあります。ただし、本書の論文はいずれも類似をgiven とせず、それを動的に作り出すメカニズムに触れているという点で、ダイナミ ズムの路線上にもあります。 またこの本は、知る人ぞ知るという豪 華メンバーによる論文が多数収録されており、類似判断、類推は元より、カテ ゴリー、認知発達、創発認知などの研究分野に大きな影響を与えるものと確信 しています。以下、各章の内容と著者紹介をくだけた形で行ないます。
類似のダイナミクス(Spencer-Smith & Goldstone)
第二著者のGoldstoneは、1990年初頭から類似判断の分野で画期的な研究を行なっ てきた、この分野のリーダーのような人です。この人の研究で類似研究は新し い段階に入ったといってもいいくらい、素晴らしい仕事をしてきた人です。 固定した類似の概念を打ち砕き、ダイナミックに類似が創発される現象 を捉えた研究とそのモデルがきわめて簡潔、わかりやすく書かれています。実 験的、モデル的ににしっかりしたものを中心に紹介されています。
さまざまな認知活動に見られる刺激ー処理適合性(Wisniewski & Bassok)
この論文は今井さん(慶応)の紹介で、書き下ろしで書いてもらったも のです。類似が単一の処理機構に支えられる認知ではなく、処理すべき情報と の関連で、さまざまな認知リソースを利用するものであることを、実験的にはっ きりと示した好論文です(originalはCognitive Psychology(1999))。 WisniewskiもBassokも、類似、概念、比喩、転移、学習などの分野で、素晴ら しい仕事をしてきた人たちです。この人たちは、独特のいい研究センスを持っ た人で、主流のアプローチの抱える根源的な問題を指摘し、それをしっかりと 実験的に押え込み、新たな発展をその分野に持ち込む仕事をいくつもしてきま した。Wisniewskiとは個人的に知合いです。アメリカの研究者と いうと、パーティではワイン数杯、タバコは見向きもせず、コーヒーはデカフェ (カフェイン抜き)というのが多いのですが、彼は酒もタバコもやるという、アメリ カの研究者にはきわめて稀な、すばらしい性格の人です。
類似性における構造整列とそのカテゴリー構造への影響(Markman)
はい、この人も知る人ぞ知るという人です。こういう言い方はあまり適 当ではないかも知れませんが、構造写像理論のDedre Gentnerの一番弟子で、 現在Cognitive Science Societyの事務局長。特に彼は構造を生成するという 側面から、構造写像理論を拡張し、構造整列(structural alignment)という概 念を提案した人です。この考え方がわかりやすく解説され、それと概念との関 係を探求したのが、この論文です。最近は、Cognitive dynamicsという本の編 集をするとともに、Dietrichと伝統、正統的アプローチからdynamical approachへの批判を行っています。
帰納推論と類似(大西 & 岩男)
編者である大西君と、現在日本でもっとも精力的に帰納推論を研究して いる岩男君との共著。前半は岩男君がOshersonらのsimilarity coverageモデ ルを解説し、自らの研究を含めたその後の展開を述べ、後半は大西君が構造整 列や、類推の観点から、自らの帰納推論を捉え直した研究を述べています。帰 納推論をこれからやる人は、これを読めばもう大丈夫。
アナロジーと想起(福田)
ことわざを用いて、ベースドメイン表象の抽象度の性質を解明した研究 で知られる、福田君の論文。彼自身の研究に加えて、近年Kevin Dunbarらが精 力的に行なっている人の自発的な類推の能力についてのレビューが載せられて います。これらの研究は、私の「準抽象化理論」ときわめて密接な関係にあり ます。
概念発達と言語発達における類似性の役割(今井
語の意味の獲得における制約論的アプローチで、内外から高い評価を受 けている慶応の今井さんの論文。類似という観点から、語意獲得の理論を総括 し、自らの研究を紹介し、従来の理論の問題点をえぐる好論文。
特徴の創造と表象の変化について(Indurkhya)
「Metaphor and Cognition」(1992)によって独自の類推、比喩、創造の 理論を打ち立てたインドゥルキャ(農工大)さんの論文。Metaphor and Cognitionは大変に素晴らしい本ですが、難しいのと、長いのと、独特な概念 体系のため、なかなか日本では広まっていません。この論文では、彼の考え (similarity creation)とその後の発展がコンパクトにまとめられています。
Metacatプロジェクト(Marshall & Hofstadter)
「ゲーデル、エッシャー、バッハ」の著者であるホフスタッダーと彼の研究 室の院生の論文。表象を動的に作り出す、きわめて斬新なアナロジーのモデル Copycatをさらに拡張し、学習や、自己参照機能を含めたmetacatの解説論文。
このように、もの凄い論文が山盛りの本です。ぜひ、お読み下さい。ここらへ んが常識になってくると、日本の認知科学や心理学もだいぶ変わってくると思 うんだけどなぁ。