Three Conditions of Human-Computer Communication
鈴木宏昭
Hiroaki SUZUKI
Abstract
本論文では、コンピュータを道具と見なすのではなく、コンピュータ をPeer (同僚) と見なし、インタフェースを人間とコンピュータとの間 のコミュニケーションプロセスとする概念化を提案する。この見解から、 インタフェースは、1.) 対話性、2.) 可塑性、3.) 開自性の3 つの条件を 持つべきであることが主張される。最後に、この概念化と条件から、マ ニュアルにおいては、1.) 手続きの記述だけではなく、課題構造の記述 を行うべきであること、2.) コミュニケーションを促すような文体を用 いるべきであること、3.) 比喩を活用すること、が指摘される。
この理由の1 つは、これらの機器の多機能性に由来する。典型的な道具は、基本的に単機能である。はさみは「切る」ものであり、ホチキスは「とめる」ものであり、かなづちは「打つ」ものである。従って、これらを使う際に何をしたいかを告げる必要はない。しかし、コンピュータは基本的に万能機械であり、プログラムさえあれば何でも実行可能である。したがって、これを利用する際には、自らが何をしたいのかをまず告げなければならない。また、1 つのソフトウェアに限ってみても、その機能はきわめて多様である。たとえば、コンパスは円、あるいは弧を描くためだけに使われる。しかし、ドローイングソフトでは様々な図形を描くことが出来る。
もう1 つの理由は、"編集" 性に由来する。いわゆる「道具」でイメージされる、単純な道具にはこうした編集性は多くの場合存在しない。一方、コンピュータでは、文章のある部分を別の場所に移動するとか、図形を回転させるなどの編集が可能である。編集を行うには、編集を行う対象、編集の種類の詳細を特定しなければならない。たとえば、「どの部分(どこからどこ)をどこへ移動する」、「どの図形をどこを中心にしてどれほど回転させる」などを告げなければならない。
佐伯の3 条件が適用できない最後の理由は、応答性、対話性に由来する。多くのソフトウェアは、その多機能性や高度な編集機能によって、対話をインタフェースの基盤とせざるを得ない。たとえば、コンピュータ(及びソフトウェア) はユーザが何かを告げると、その詳細をある種の対話を通して特定しようとする。コンピュータの方から「これこれのことをしてください」というように指示が出されることもある。一方、単純な道具の使用には、対話は介在しない。単にそれを用いて結果がでてくるだけである。 こうしたことから考えると、少なくとも非規範性、透明性はコンピュータのような道具には適用できないことは明白である。
人間と道具の間には、愛着、信頼といった関係が存在しているケースがある。たとえば、職人(たとえば、大工や料理人) は道具(かんなや包丁) に対して、特別の感情を抱きつつ、日常的にその道具をケアしている。また、プロの物書きの中には、万年筆や時には原稿用紙にまでかなりの執着を見せるケースがある。
こうした道具と人間との関係は、その道の専門家だけに留まるものではない。たとえば、初心者ドライバーですら所有する車に対して、かなりの愛着を見せるケースが少なからず存在する(ドライバーが車に語りかけたり、車の機能や乗り心地とは本質的に無関係な装飾などを行ったりする)。また、初心者プログラマーであっても、自作のプログラムをより「賢く」するために、あれこれと拡張を行うケースが見受けられる。
以上のことは、道具と人間の関係は主人と召使という関係では捉えきれないことを示している。
これと関係しているが、道具的コンピュータ観は、コンピュータはユーザの言いなりになるという幻想を生み出す。道具は、そもそも召使なのであるから、不平などを言わずに、どんな時にでもユーザの言うことを聞くべきだ、という誤解である。実際にコンピュータを使用する場合には、実行不可能なことがあるのは無論であるが、通常の場合には可能な操作が、ある条件下では実行できないことはよくある。
第3 に、道具的コンピュータ観では、コンピュータは意志を持たないものとされるので、ユーザに問い合わせや指示を行うものとは見なされない。したがって、コンピュータからのメッセージが無視されてしまう。実際、初心者に見られる典型的な問題行動は、コンピュータからのメッセージを読まないということである。
これと関係するが、第4 に、指示の出し方、手順を覚さえすればコンピュータは使えるという誤解を生み出す。多くの場合、ユーザが指示を出し、それに対してコンピュータの方からいくつかの問い合わせがあり、それにまたユーザが応えるという過程を経て、ある機能が実行されるケースが多い。しかし、道具的コンピュータ観を持つユーザは「まず最初にこうする、次にこうする…」という手順を覚えることにその努力の大半が注がれることになる。
さらに、製作者は単に個人として存在しているのではなく、その人と問題状況や思考方法を共有する人間集団=文化の一員でもある。こうした他者や文化の存在により、製作された道具が普及するのである。
とすると、道具はユーザの言いなりになる召使ではなく、ある文化に属し、その文化の価値観や歴史や問題意識を受け継いだ、ある製作者の分身ということになる。したがって、その文化に独自なものの見方、そこで利用可能な資源の制約を受けた存在なのである。はさみを例にとってみよう。はさみの製作には、鉄やそれを加工する技術が必要なのは自明であるが、そもそも紙や布のように薄いものが存在し、それらを切ることに文化的価値が与えられる状況、そして使い手の多くが右利きであるの中で、生み出されたものである。したがって、そうした状況を共有できない人々にとっては、はさみは透明ではないし、手段性も有しない。
開発者というのは基本的にこのような思考が支配する文化の中で育ち、それを身につけた人である。こうしたことを考えれば、既存の様々な装置の操作において、課題分割という認知的操作が必要とされるのも当然のこととなる。こうしたことはコピー機、ビデオ、ワープロソフトなどのOA 機器、家電機器の操作においても同様である。予約録画という課題は、それが何日、何時から始まるのか、何日、何時に終るのか、チャンネルは何か等々を設定する課題へと分割される。ワープロにおいても同様で、移動という課題は、「何を(したがって、どこから、どこまで)」、そして「どこへ」を設定する課題へと分割される。こうしたインタフェースは、すべて彼らの思考の自然な延長なのである。一般に、理科系(特に工学系)出身者には機械音痴は少ないのは、彼らがこうした文化的背景を持っているからではないかと思われる。
こうした思考方法は製作という作業に必ずともなってくるものであるが、利用という文脈においては必ずしも自覚されているとは考えられない。実は、初心者ユーザが見せる、一見理解不可能な行動は、この課題分割という観点から説明できる。
筆者らは、コピー機を用いて、機械音痴と呼ばれる(あるいは自認する)人のパフォーマンスを分析する中で、彼らは課題分割を行わない、あるいはコピー機の製作者が仮定するのとは全く異なった形で課題分割を行っていることを明らかにした(鈴木・植田・堤, 1998)。
たとえば、「両面でソータを用いて5 部コピーをとる」という場合、
こうした人達に課題分割を教示したり、課題分割が自然に見てとれるようなディスプレイを操作させると、遂行時間が減少し、エラーも著しく少なくなる。
これらの実験は課題分割さえ獲得すれば機械音痴がなくなるということ意図したものではない。そうではなく、ユーザの文化とは異なる文化の思考方法を教える、あるいは可視化することにより、コミュニケーションを円滑にすることを目的としたものである。
人間の場合、コミュニケーションがうまくいかない時には、別の言い方をしてみる、例を出して説明するなどのいろいろな会話のモードがあり、聞き手の方でも相手の特性を推測し、様々な解釈を試みる。
よって、道具側では、別の伝え方、別の解釈の仕方を実装しているかということ、つまり冗長性が保証されていることが重要である(たとえば、macro言語を持っているワープロや、X-window のように自分の会話しやすいWindow Manager を選択できるものなど。)。
一方、ユーザ側のポイントは自らが伝えようとしている目的-行為がどのような構造を持っているのかを考え直してみるということ重要である。これには課題分割という考え方が、少なくとも現在の道具に対しては、大変に有効である。
簡単にいえば道具側の要件としては構造、組織化がはっきりと見えることが必要になる。自らがどのような意図の下に、そしてどのような制約の下に、インタフェースを設計したのかをはっきりと提示する。また、ユーザは、その新しい構造に接することにより、自らを問い直す中で、自らの文化を相対化していくことが必要となる。
今まで佐伯(1997) が述べた道具の持つ3 条件を批判的に取り上げ、人間とコンピュータのコミュニケーションの促進のための条件を提出した。ここで明確にしておきたいのは、佐伯のアプローチと本論文のアプローチの関係である。佐伯は確かに道具について不適当な概念化を行い、道具の条件を導き出している。しかしながら、佐伯は1992 年の論文で、コンピュータと人間との関係を異文化間コミュニケーションとする主張を行っている(佐伯, 1992)。さらに、道具の3 条件を明示した1997 年の著書においても、製作者文化の問題や手順主義の問題点などを取り上げており、そもそも本論文は佐伯のそれらの主張を出発点としている。したがって、本論文は佐伯の理論の批判的拡張と見なされるべきものである。
手順主義では、ソフトウェアの構造、インタフェースの構造の理解は、専らユーザの帰納的推論に頼らざるを得なくなる。純粋に理論的に考えると、こうした帰納によって正しい構造を推論することは極めて困難である。実際、誤った一般化を行ったり、一般化がそもそもできずに個々の手順をいちいちマニュアルで確かめながら行うユーザは少なくない。
課題分割の実験からも同様のことが示唆されている。つまり、初心者が戸惑う原因の1 つは、課題がどのように分割されているか、どのような構造になっているかがマニュアルを読んでも理解できないことである。
我々は、コピー機の課題の分割構造が直観的に理解できる支援画面を付け加えたインタフェースにおける初心者ユーザの行動を分析した。その結果、支援画面を用いたユーザはそうでないユーザに比べて、エラー回数が有意に少なかった。また、多くのユーザが支援画面は大変に有効であったと報告している。
これらのことから、マニュアルにおいても個々の操作手順に加えて、それらが課題全体の中でどのような位置付けになっているのか、課題およびインタフェースの構造がどのようなものかを明示すべきであることが導かれる。
5.2 マニュアルの文体 マニュアルの文体が相手を意識させるようになっていない点もまた問題である。典型的なマニュアルは次のような文体で書かれている。
熟達者のこのような比喩は、彼らが豊かな、そして適切なイメージを持ちながら、コンピュータに接していることを示している。マニュアルにおいても、これらの比喩を積極的に用いながら、熟達者が持つイメージを伝え、豊かな概念化を促すことは可能であると思われる。
参考文献 [1]佐伯胖(1992) ヒューマン・インタフェースは異文化交流の場である. 認 知科学の発展5, 5 - 28. [2]佐伯胖(1997) 新・コンピュータと教育. 岩波書店. [3]鈴木宏昭・植田一博・堤江美子(1998) 日常的な機器の操作の理解と 学習における課題分割プラン. 認知科学5, 14 - 25.